途方に暮れてる

愛について書く

ことばのきらめきと死(雪国より愛をこめて)

 

 

こんにちは。あいです。12月6日です(きもちだけ)。

謎解き以外アドベントカレンダー(https://adventar.org/calendars/3409)に参加させていただきます。遅刻ですすみません……。

 

去年の短歌のおはなし(http://tetrapod000.hatenablog.com/entry/2017/12/21/003952)につづいて何を書こうってずっと考えていたのですが、今年もやっぱり文学のお話をさせてください。ことばがきらめくということ。これが今回のテーマです(あんまり面白くないかもしれない。むぐぐ)。

 

 

これを読んでくださってる方のなかに本読むの好きだよってひとはどのくらいいるのでしょうか。

 

小説を読むのが楽しいのはどうしてでですか?

 

ここではない世界に飛んでいくことができるから、現実ではあり得ない話を聞くことができるから、スリル、興奮、感動、500円出せば人間ひとりの人生すら覗き見ることができる。

でもそれって映画とか演劇とか、あと漫画とかではだめなんでしょうか。

 

長編小説が存在するのは、かつては映画が存在しなかったからだと聞いたことがあります。

 

グーテンベルクさんの活版印刷のおかげでわたしたちは印刷された文章を読むことができるようになりました。それまで、大衆にとって文章は、主に聴覚によって認識するものだった。印刷のおかげで黙読という現象が発生した。わたしたちは個人で物語を体験することができるようになりました。

 

でも映画が発明されて、技術が発展して、面白い物語体験、というだけであれば小説は映画に敵いませんよね。

圧倒的にインパクトがあるし、派手だし、物語が終わるまで席を離れづらいという強制力すらあるから。

 

小説が映画に勝てる点がひとつだけあるとすればそれは、ことばを使っている、というところだとわたしは思います。

 

 

わたしもあなたも多分このブログが読めるのは人間だけなのでわかると思うんですが、わたしたち、ことばを使って生きています。

朝起きてつけたテレビでアナウンサーが読むニュースも、電車の遅延を知らせる放送も、仕事の企画書も、ファミレスでお姉さんにする注文も、深夜にSNSでつぶやく「眠れない」も、ぜんぶそう。

 

世界にはことばが溢れている。

 

小説が最高の娯楽で、映画が発明されても滅亡しない芸術であり得るのは、そのことばというものに美が潜んでいるからだと思います。

 


 ──国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
 向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ呼ぶように、
「駅長さあん、駅長さあん」
 明りをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。
 もうそんな寒さかと島村は外を眺めると、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれてい た。
「駅長さん、私です、御機嫌よろしゅうございます」
「ああ、葉子さんじゃないか。お帰りかい。また寒くなったよ」
「弟が今度こちらに勤めさせていただいておりますのですってね。お世話さまですわ」

 

 

川端康成の『雪国』の冒頭です。

最初の一文はすごく有名だけど、全部は読んでない人もいるかもしれない。

これ、わたしが今まで読んだなかでいっっちばんすげえなって思う文章と言っても過言じゃないくらいすきなんですけど。

 

この文章の優れてる点っていうのはおおまかにふたつあると思います。

 

まずひとつめ、「夜の底が白くなった。」とかいう表現の素晴らしさ。

こんな短いのに美しい表現があってたまりますか!?

たぶん、そのトンネルを抜けて見えた、夜に塗り固められたような真っ暗な景色のなかで地面に積もる雪がぼんやり白く目に残った、というようなことを言いたいんだと思うんですけど、夜の底ってお前……白く「なった」ってお前……。

地面はずっと白かったはずです。それを、主人公(島村)から見える風景が変わっただけで白く「なった」って大胆に言い切っちゃうとこマジかっこいい。

『雪国』にはこれ以降にもかなり素敵な表現が随所にあって、そのうちのひとつに、葉子っていうかわいいおんなのこが島村(クズ主人公)を「きらきら睨んだ」ってやつがあります。

睨む描写に「きらきら」ってオノマトペ使わなくない??天才か??そりゃノーベル賞もとるわ。

 

そしてふたつめ、圧倒的な構成力です。

引用した冒頭の部分、読みながら映像が浮かんでくる……というよりも、読みながら自分がその電車のなかで登場人物たちが動いているのを眺めているようなきもちになりませんか?(なる)

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」という冒頭の一文は、長い夢から覚めたように真っ暗なトンネルから出て、色のある景色が主人公島村の眼前にあらわれたことを表現していますが、それと同時に、本を開く以前の非虚構の世界から、美しい虚構の世界、『雪国』の世界への橋渡しの役割も果たす、最高の入りです。

雪国だから最初から寒い〜って書くんじゃなく、葉子が窓を開けたという描写の後に「冷気が流れこ」むって書くところもすごい。

小説のなかでことばを扱うことにおいて完ぺきな順番がここにある。

わたしも小説書いてるんですがこういうのほんとうになかなかできるものじゃない。

 

純文学、って定義はわりかし曖昧で、ブリタニカ国際大百科事典では「読者の娯楽的興味に媚 (こ) びるのではなく,作者の純粋な芸術意識によって書かれた文学というほどの意味」と書かれていますが、じゃあ芸術意識ってなんやねん、とか、直木賞は大衆文学で芥川賞は純文学の賞って結局その差をもうけてるのは作家自身じゃなくて出版社側でしょとか、まあよくわかんない。

 

それでも、これはほんものだ、これはうつくしい、って思う小説はあるし、本当にすごい作品ってあとに残るんですよね。

だから、本を読むのはすきで、だけど教科書に出てくるような堅苦しい昔の純文学はちょっと、って思ってるひとにもぜひいろいろ読んでもらいたい。ドストエフスキーとか超絶おもしろいよ、長くて萎えるしロシア人の名前覚えるの大変だけど、キャラももちろんストーリーも面白い。

わたしもちゃんと全部勉強したわけではないけど『罪と罰』はほんとよかった。

 

 

 

さっきもちょっと書きましたが、わたしたちって人間です。

ことばが使えます。

ことばが使えるってことはいろいろな発声方法を実践することが可能ってことで、その発声学習ができるのは、霊長類の中では人間だけらしいです。

ほかには九官鳥とかの鳥類、あとイルカとか。

 

そういう発声学習ができる生き物の共通点は、「自分の意思で呼吸を止めることができること」。

 

もちろん人間が自分の意思で呼吸を止められるようになったのは生存に有利だから、赤ちゃんとかはいろんなバリエーションの泣き方をしないと自分の意思を伝えられないから、生きるため、なんですけど、ことばを獲得するのに「呼吸を止めること」が必要だったってこと、わたしは忘れちゃいけないような気がします。

 

これからもわたしたちは多分ことばを使って生きていきますが、そこに潜む美と、ちいさな死を自覚すれば、もっと世界のことすきになれるような気がします。

 

おわり!