途方に暮れてる

愛について書く

好奇心に殺される

 

好奇心っていうのはおそろしいもので、わたしたちは日常を破壊するような刺激的ななにかを覗くことを希求している。

かつて佐藤春夫がキューリアスティハンティングと訳した猟奇耽異は、変態的で下卑た欲求としてわたしたちの中に常にあり続ける。「普通の人間」存在への冒涜とか絶望とかアンチテーゼとか、そこにある苦痛も恍惚もすべては視覚情報からくる想像と追体験でしかないのに、わたしたちは興奮する。対象と距離があればあるほど、秘密が濃ければ濃いほど想像力は掻き立てられ、熱狂する。

わたしたちが笑い、怯え、眼を見張ること、感覚は彼らにコントロールされている。見世物小屋は、テントの中で起きる人間の心理現象もすべてを含めて「見世物」なんじゃないかと思う。

 

SADISTIC CIRCUS 2018 SPRING、見てきました。今年で最後になってしまうということでほんとうに見にいけて良かった。特に印象に残った演目と考えたことを書きます。順不同。

 

□浅葱アゲハ

マーガレット・アトウッド侍女の物語』をテーマにした空中芸とストリップ。前説で「天女」と称されていたその印象がぴったりはまっていて素晴らしかった。360度から見られるステージのつくりだったのですが、演者さんが空中にいるからよく見える席とか見えない席とか関係なくてその点でもすごいなあ…と思いました。上から吊るされた布を身体に巻きつけて自在に宙を舞う姿は泳いでいるみたい。踊り子さんって身体につきまとうあらゆる制限から自由になって身体すら飛び越えて踊るイメージだったのだけど、この演目は少し違って、重力を取り払った代わりにさらさらした水の抵抗みたいなものが見えたような気がしてもう訳がわからなかった。空気って液体だったんだ…。

赤い布を使ったパフォーマンスはおそらく胎児のイメージだったんじゃないかな。へその緒に繋がれながらぐるぐると羊水の中を自由に胎動して、その間に彼女はきっと魚の夢を見ていたと思う。頭から地面に降りていく神秘さにやられて息ができなかった。真っ白の衣装もその無垢を引き立てていてすごく素敵でした。

 

□龍崎飛鳥+早乙女宏美

SMと切腹第二次世界大戦中がテーマで、前半の緊縛ショーは抑圧と支配の匂いが強いSMでした。緊縛は暴力だけどどうしようもなく美しいから、そこに歴史上過去に実際にあったこととはいえ民族や性差別の色合いが滲むのは危険で、でも危険だからこそより美しく感じてしまうという面があると思った。植民支配先の女性を暴行する軍人さんの役をやっているのが男装の女性ということで、意味が倒錯してぐちゃぐちゃになる。演者さんの感情がいい意味で全然わからなくて恐ろしかった。

後半の腹切ショーは、壮絶と圧巻のひとこと。あれはほんとうに切っているんですか…?卒倒者が出るというのにも納得しました。人間は罰があるから罪を犯すのかもしれない。あの切腹で軍人の妻にもたらされたのは確かに救いで、時代から離れた場所でしか彼らは「潔白」にはなれないよ。

 

□川村美紀子+HIKO

現代アートじゃん…めっちゃいろんなこと考えてしまった。前衛舞踊と現代音楽の融合と破壊。男が鳴らすドラムの音に共鳴するかのように身体を波打たせ、暴れ、奏でられる音楽を邪魔する女。女の妨害にあってもドラムを元の位置に直して音を鳴らし続ける男。その音はもはやノイズのようでもあり、一心不乱に、男はなんのためにドラムを叩くのか(「ドラマーだから」か?)、客席の笑い声にすら反応していたように見えた女の骨ばった身体はなぜ音とともに動き続けるのか(「ダンサーだから」?)、考えだすと「狂気」としか形容できないけれど、わたしがあれを笑えなかったのは比喩としてすごく正確な気がしたから。ただの無意味かもしれないけれどそこから跳躍して普遍を生むパフォーマンスだったと思います。

次第に螺子が飛び始め、男はドラムを破壊しはじめる。ヘッドを切り取り、その中に女をしまい込む。疲れ果てた女はその中でもなお音を追い続ける。ドラムがもうドラムではなくなって、男も女もぐちゃぐちゃになって演目が終わる。なんか、こうだから現代日本社会ってうまくいかないんだよなあと思った。演者のおふたりがはけるとき、ふたりで肩を貸しあって無表情で歩いていくのを見て謎に納得しました。すごかったなあ…。

 

ゴキブリコンビナート

見れてよかったです!!!よかったです!!!ずっと見たかったんだ!!!もうカオス。ハイテンションに物語が進行して、山場のだんご三兄弟で急にテンションがスン…となってそのまま演者さんがはけていくのがとてもよい。面白い。ほっぺがやわらかいと刺すのたいへんなんだな…しばらくだんご三兄弟聞いたら思い出すぞ…。

 

□LOUIS FLEISCHAUER

人間の体を楽器に、ってことでどんなかとても気になっていたのですが予想と全然違う方向性で驚きました。儀式的空間を作り出す、ということだったけれどもはやあれは儀式そのものだったのではないかという説がわたしの中にあります。あんなに痛そうなことをしているのに客席が悲鳴をあげたりする空気感に一切ならないところが(舞台上の儀式にのみこまれてしまっている)ものすごくドイツっぽくて好きだった。

神様はきてくれなかったのでしょうか。儀式に参加した4人は殉教するように動きを止め、ステージが暗転して演目が終わってしまいます。大学の授業で、芸術をするうえで、その内容よりも「器(=media)」が重要な場合があると言っていた、まさにそれだと思う。儀式によって神が降臨したかどうか、よりも儀式を行うことが大切なんだ。女性が釣り上がってゆく時の苦しそうな表情、頭から針を抜いた血まみれの男性の目は焼き付いて離れない。

 

□THE SIDESHOW SUPERSTARS

これがエンターテイメントです。先のルイスフリッシャーさんが儀式ならこちらはサーカス。底抜けに楽しそうな彼らは痛そうな曲芸をたくさんするけど、その苦痛に歪む表情さえ観客に興奮を与えるよう計算されているのだと思うともう転がされるしかないなという気持ちになる。ほんとうに楽しいという一点に極振りされていて司会もそれぞれのキャラクターもぴったり考え尽くされていた感じ。ひやひやが程よくて、拍手しすぎて手が痛くなったし笑いすぎて唇切れました。

周りの反応見てるとやっぱり日本人って派手なパフォーマンス好きだな。剣を飲み込むやつすごかったです。

 

□奈加あきら+紫月いろは

大トリです。緊縛ショーです。ほんとうに感動した。

手つきも目つきもほんとうに優しくて、はじめ恥じるように肌を隠す紫月さんの着物を脱がすところからショーははじまるものの、抑圧というより自由を与えるような緊縛で、手早く縄を巻き付けていく奈加さんの様子に目が離せなくなりました。

女性であること、裸を見せることを恥じなければいけないことから解放され、茶色の縄で縛られていく紫月さん。印象的だったのは性器に縄を使っていなかったことだと思う。縛られるひとを性的に辱めるのではなく、身体を包む、ひとりの人間を美しい姿で固定する、そういう縄のあり方を見た気がしました。

終盤、紫月さんが上へ吊り上げられていく、というとき彼女はもはや胸を隠すような恥ずかしいようなそぶりは見せず、堂々と、ひっそりと空を飛んでいて、苦しいでしょう、脚なんてきっとすごく痛いはず、だけどもう、すごく清潔で美しくて、言葉になりません。奈加さんが紫月さんのまとめ髪を解くと美しい黒髪が空中にわっと流れて、桜の花びらがたくさん降った。死体のようにじっと動かない真っ白な身体が吹雪かれるのを上着を脱いでしたから眺める奈加さんの表情が桜を見つめる少年のようで、美しさの前に人間は平等なんだと思いました。

緊縛は暴力だけど、それによって自由を見ることができるなんて想像していなかった。ほんとうにわたしが求めていたものが見られた。よかった。ほんとうによかった。

手早く縄を解いて、身体に赤い跡を残しながら緊縛がおわってゆく、緊縛師とモデルという関係からすら解き放たれたふたりは抱き合う。縄を外した紫月さんに、奈加さんが着物をかけてあげる。紫月さんは礼をしている最中も徹底して胸は露出せず、奈加さんもはだけないように着物をおさえてあげている。

なんだかもう、だめです。美しくて、どうしようもなくて、すごくまっしろな透明な気持ちで、サディスティックサーカス の長い歴史の幕は降りたのでした。

 

 

振り返って、ほんとうにどの演目も素敵でした。ここには書かなかった方々もほんとうに!(ダンスとかは詳しくないので感想書かなかったけどすごくすごかった)

 

好奇心のことをはじめに書いたけれど、演者の方に感覚をジャックされてこんな凄まじい興奮と感動を味わえるなら、猟奇趣味変態趣味も万々歳です。

わたしにとってのサディスティックサーカス は最初で最後のトラウマでしたが、この妖しく魅惑的な悪夢と、運良くまたどこかで出会えることを願いたい。