途方に暮れてる

愛について書く

今と暴力

 

少女であることは、一種の暴力だと思うのだ。

っていう書き出しの小説を書いていて、完成しないままだいたい半年が過ぎた。かわいいは正義で正義が暴力だというのは多分使い古された言葉だと思うのだけれど、最近私はそれを痛いほど感じている。

私は今電車に乗っている。さっきから隣の席でお化粧を直している美人のお姉さんはびっくりしてしまうくらい見苦しいけど、でも美人でかわいいから許せる。かわいいという言葉でがつんと殴られたみたいに、とても暴力的。暗い赤色のアイシャドウがお姉さんの目に塗りたくられていく。美容院で読んだファッション雑誌に、目の下のところを赤くすると熱っぽい視線を演出できる云々ってかいてあったけど、それだろうか。わからないけど、なんかすごい。私は目に赤なんて無理だ。目蓋には茶色で精一杯。目の下には薄く白が精一杯。

 

わたしはたぶん若い。18だから、未成年だし、お酒も飲めない年齢だ。若さと可愛いは一緒で、若いというだけでちやほやされるコミュニティというものが確かに存在するけど、勘違いしたらいけないはず。どう考えても電車の扉の横のところできゃっきゃしている女子高生たちの方がかわいい。

少女であることは一種の暴力だと思うのだ。

っていう書き出しの小説を書こうと思い立った半年前から私は半年も老けてしまって今ここにいる。私に半年前みたいな若さはもうないけど、半年経ったらまた同じことを思うんだろう。そうやって繰り返して行った先に、半年前の半年前はどんどん黒歴史になっていくんだろうなと思うととても怖い。今しか生きられないってとても残酷なことだから、夜の新宿の街で私に話しかけてきたカラオケの客引きのお兄さんの変な目の色とか、はじめて埼京線に乗った日の雲の形とか、いろんなこと覚えていたいと思うけど、すぐに忘れてしまう。それがとても嫌だ。壊れない機械に憧れたりしたくなるかもしれない。

 

でもその一瞬だけ、今、暴力に振り回されたい時は確かにある。かわいい女の子が横にいて、自分との格の違いを見せつけられながらおしゃべりができて、泣きながら「かわいいかわいい」って言うことで何かがゆるされる世界があるならそれってなんて幸せな世界だろう、そう思ったけどもうすでに宗教がそういう世界だった。最近AIとかすごいけど、たぶんロボットに宗教は必要ないんだろうな。

集英社は銀さんで、角川はケロロっていいます。松田先生に任せろ。」って、電車の中でずっと繰り返している男のひとがいる。青いTシャツをきて、黒いズボンを履いている。既視感がある気がするけど、いつのことだったかは忘れた。「今」だけに言葉を吐き出していけるのってすごい才能だ。男のひとは赤羽で降りた。たぶんもうすれ違うことはないだろうけど、きっとまたどこかで出会うような気もする。

 

私はいつまで若いのかな。できれば早く年を取りたい。大人になりたい。目的地の駅に着いたから電車から降ります。

 

人を待ってる

 

いま、駅で人を待っている。とても生理痛で腰が重い。ここは東京じゃなくて今は昼でもないから、人々は割合忙しなく駅へ吸い込まれてゆく。みんな、うちへ帰るのだと思う。スーツを着たおじさんと、部活帰りの高校生が多い。さっきから就職情報誌のチラシを配っている赤い服のお姉さんが道行く人に声をかけているけど、みんな無表情に声を遮断して通り過ぎてゆく。さっきから一枚も受け取ってもらってないじゃないか。お姉さんに同情するけどチラシを貰おうとは思わない。でもまあ、そりゃそうだよね。そりゃ、そうだ。

連絡がまだ来ない。彼、多分家で眠っていると思う。当初の待ち合わせの時間を2時間過ぎたのを駅の時計でさっき確認した。私のスマートフォンの時計や筆箱の中に入っている腕時計で待ち合わせの時間とかを確認するのはなんだか不十分な気がする。そういえば『田園に死す』の映画で、お母さんが壊れた家の柱時計を直そうとするシーンがあったっけ。主人公が「腕時計がほしい」って言ったらお母さん怒っていた。みんなでおなじ時計を使わないとご飯の時間がバラバラになってしまう、とかそういう感じのことを言っていた気がする。寺山修司はやっぱりすごくて、その通りにも程がある。私と社会が共有してるものって少ないな。

隣に座っている喪服のおばあさんがいま立ち上がりました。向うから同じく喪服を着たおじいさんがやってくるのが見える。私も立ち上がりたい。でも彼から連絡は、来ない。

お姉さんが羨ましい。何も考えずに「お願いします、お願いします」と言っていればいいもんね。私はこうして彼から来るかわからない連絡を待ち続けなきゃいけない。でも、そんなことを考えてる自分がいまものすごく嫌いだ。

喪服のおばあさんが羨ましい。誰を亡くしたのかは知らないけど、旦那さんといろんなこと共有して生きてきたんだなってことが2人の顔を見たら分かる。

 

そういえばまたこうして久しぶりにブログをはじめてみたわけだけど、私が中学生の時に仲が良かった隣の男子校のお兄さんはいまもブログをやってるみたいで、でもあの時みたいに書いてやるぞ!っていう気力はもうないらしい。確かに大学生になったいま、耐えられないくらい現実感がない日っていうのがたまにあって、それはやっぱり仕方ないことなのかな。自分でどうにかしなきゃいけないことだとは思うんだけど、日々に殺されてるなって感じる。死んでないだけだなあ。

 

今目の前でお姉さんのチラシが一枚売れました。いや、売れたわけじゃないけど、気の良さそうなおばさんが一枚貰ってカバンの中にしまったのをわたしはぼんやり見てた。彼から連絡があって、やっぱり起き上がれないそう。私はやっぱりこんな時も耐えられないくらい現実感がなくて、ため息をついてベンチから立ち上がる。車がないと移動できないって不便だね。自転車ほしい。

 

コメダ珈琲で食べたシロノワールが美味しかったって記憶だけで、可愛い年上のお姉さんに優しく挨拶してもらえたって感覚だけで、ふわふわと幸せに過ごせる私は幸せなんだ。そろそろ日が暮れそう。残暑の夕方、青の色水の中に沈んでるみたいな気持ちになれるから好きです。