途方に暮れてる

愛について書く

人を待ってる

 

いま、駅で人を待っている。とても生理痛で腰が重い。ここは東京じゃなくて今は昼でもないから、人々は割合忙しなく駅へ吸い込まれてゆく。みんな、うちへ帰るのだと思う。スーツを着たおじさんと、部活帰りの高校生が多い。さっきから就職情報誌のチラシを配っている赤い服のお姉さんが道行く人に声をかけているけど、みんな無表情に声を遮断して通り過ぎてゆく。さっきから一枚も受け取ってもらってないじゃないか。お姉さんに同情するけどチラシを貰おうとは思わない。でもまあ、そりゃそうだよね。そりゃ、そうだ。

連絡がまだ来ない。彼、多分家で眠っていると思う。当初の待ち合わせの時間を2時間過ぎたのを駅の時計でさっき確認した。私のスマートフォンの時計や筆箱の中に入っている腕時計で待ち合わせの時間とかを確認するのはなんだか不十分な気がする。そういえば『田園に死す』の映画で、お母さんが壊れた家の柱時計を直そうとするシーンがあったっけ。主人公が「腕時計がほしい」って言ったらお母さん怒っていた。みんなでおなじ時計を使わないとご飯の時間がバラバラになってしまう、とかそういう感じのことを言っていた気がする。寺山修司はやっぱりすごくて、その通りにも程がある。私と社会が共有してるものって少ないな。

隣に座っている喪服のおばあさんがいま立ち上がりました。向うから同じく喪服を着たおじいさんがやってくるのが見える。私も立ち上がりたい。でも彼から連絡は、来ない。

お姉さんが羨ましい。何も考えずに「お願いします、お願いします」と言っていればいいもんね。私はこうして彼から来るかわからない連絡を待ち続けなきゃいけない。でも、そんなことを考えてる自分がいまものすごく嫌いだ。

喪服のおばあさんが羨ましい。誰を亡くしたのかは知らないけど、旦那さんといろんなこと共有して生きてきたんだなってことが2人の顔を見たら分かる。

 

そういえばまたこうして久しぶりにブログをはじめてみたわけだけど、私が中学生の時に仲が良かった隣の男子校のお兄さんはいまもブログをやってるみたいで、でもあの時みたいに書いてやるぞ!っていう気力はもうないらしい。確かに大学生になったいま、耐えられないくらい現実感がない日っていうのがたまにあって、それはやっぱり仕方ないことなのかな。自分でどうにかしなきゃいけないことだとは思うんだけど、日々に殺されてるなって感じる。死んでないだけだなあ。

 

今目の前でお姉さんのチラシが一枚売れました。いや、売れたわけじゃないけど、気の良さそうなおばさんが一枚貰ってカバンの中にしまったのをわたしはぼんやり見てた。彼から連絡があって、やっぱり起き上がれないそう。私はやっぱりこんな時も耐えられないくらい現実感がなくて、ため息をついてベンチから立ち上がる。車がないと移動できないって不便だね。自転車ほしい。

 

コメダ珈琲で食べたシロノワールが美味しかったって記憶だけで、可愛い年上のお姉さんに優しく挨拶してもらえたって感覚だけで、ふわふわと幸せに過ごせる私は幸せなんだ。そろそろ日が暮れそう。残暑の夕方、青の色水の中に沈んでるみたいな気持ちになれるから好きです。