途方に暮れてる

愛について書く

ことばのきらめきと死(雪国より愛をこめて)

 

 

こんにちは。あいです。12月6日です(きもちだけ)。

謎解き以外アドベントカレンダー(https://adventar.org/calendars/3409)に参加させていただきます。遅刻ですすみません……。

 

去年の短歌のおはなし(http://tetrapod000.hatenablog.com/entry/2017/12/21/003952)につづいて何を書こうってずっと考えていたのですが、今年もやっぱり文学のお話をさせてください。ことばがきらめくということ。これが今回のテーマです(あんまり面白くないかもしれない。むぐぐ)。

 

 

これを読んでくださってる方のなかに本読むの好きだよってひとはどのくらいいるのでしょうか。

 

小説を読むのが楽しいのはどうしてでですか?

 

ここではない世界に飛んでいくことができるから、現実ではあり得ない話を聞くことができるから、スリル、興奮、感動、500円出せば人間ひとりの人生すら覗き見ることができる。

でもそれって映画とか演劇とか、あと漫画とかではだめなんでしょうか。

 

長編小説が存在するのは、かつては映画が存在しなかったからだと聞いたことがあります。

 

グーテンベルクさんの活版印刷のおかげでわたしたちは印刷された文章を読むことができるようになりました。それまで、大衆にとって文章は、主に聴覚によって認識するものだった。印刷のおかげで黙読という現象が発生した。わたしたちは個人で物語を体験することができるようになりました。

 

でも映画が発明されて、技術が発展して、面白い物語体験、というだけであれば小説は映画に敵いませんよね。

圧倒的にインパクトがあるし、派手だし、物語が終わるまで席を離れづらいという強制力すらあるから。

 

小説が映画に勝てる点がひとつだけあるとすればそれは、ことばを使っている、というところだとわたしは思います。

 

 

わたしもあなたも多分このブログが読めるのは人間だけなのでわかると思うんですが、わたしたち、ことばを使って生きています。

朝起きてつけたテレビでアナウンサーが読むニュースも、電車の遅延を知らせる放送も、仕事の企画書も、ファミレスでお姉さんにする注文も、深夜にSNSでつぶやく「眠れない」も、ぜんぶそう。

 

世界にはことばが溢れている。

 

小説が最高の娯楽で、映画が発明されても滅亡しない芸術であり得るのは、そのことばというものに美が潜んでいるからだと思います。

 


 ──国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
 向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ呼ぶように、
「駅長さあん、駅長さあん」
 明りをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。
 もうそんな寒さかと島村は外を眺めると、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれてい た。
「駅長さん、私です、御機嫌よろしゅうございます」
「ああ、葉子さんじゃないか。お帰りかい。また寒くなったよ」
「弟が今度こちらに勤めさせていただいておりますのですってね。お世話さまですわ」

 

 

川端康成の『雪国』の冒頭です。

最初の一文はすごく有名だけど、全部は読んでない人もいるかもしれない。

これ、わたしが今まで読んだなかでいっっちばんすげえなって思う文章と言っても過言じゃないくらいすきなんですけど。

 

この文章の優れてる点っていうのはおおまかにふたつあると思います。

 

まずひとつめ、「夜の底が白くなった。」とかいう表現の素晴らしさ。

こんな短いのに美しい表現があってたまりますか!?

たぶん、そのトンネルを抜けて見えた、夜に塗り固められたような真っ暗な景色のなかで地面に積もる雪がぼんやり白く目に残った、というようなことを言いたいんだと思うんですけど、夜の底ってお前……白く「なった」ってお前……。

地面はずっと白かったはずです。それを、主人公(島村)から見える風景が変わっただけで白く「なった」って大胆に言い切っちゃうとこマジかっこいい。

『雪国』にはこれ以降にもかなり素敵な表現が随所にあって、そのうちのひとつに、葉子っていうかわいいおんなのこが島村(クズ主人公)を「きらきら睨んだ」ってやつがあります。

睨む描写に「きらきら」ってオノマトペ使わなくない??天才か??そりゃノーベル賞もとるわ。

 

そしてふたつめ、圧倒的な構成力です。

引用した冒頭の部分、読みながら映像が浮かんでくる……というよりも、読みながら自分がその電車のなかで登場人物たちが動いているのを眺めているようなきもちになりませんか?(なる)

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」という冒頭の一文は、長い夢から覚めたように真っ暗なトンネルから出て、色のある景色が主人公島村の眼前にあらわれたことを表現していますが、それと同時に、本を開く以前の非虚構の世界から、美しい虚構の世界、『雪国』の世界への橋渡しの役割も果たす、最高の入りです。

雪国だから最初から寒い〜って書くんじゃなく、葉子が窓を開けたという描写の後に「冷気が流れこ」むって書くところもすごい。

小説のなかでことばを扱うことにおいて完ぺきな順番がここにある。

わたしも小説書いてるんですがこういうのほんとうになかなかできるものじゃない。

 

純文学、って定義はわりかし曖昧で、ブリタニカ国際大百科事典では「読者の娯楽的興味に媚 (こ) びるのではなく,作者の純粋な芸術意識によって書かれた文学というほどの意味」と書かれていますが、じゃあ芸術意識ってなんやねん、とか、直木賞は大衆文学で芥川賞は純文学の賞って結局その差をもうけてるのは作家自身じゃなくて出版社側でしょとか、まあよくわかんない。

 

それでも、これはほんものだ、これはうつくしい、って思う小説はあるし、本当にすごい作品ってあとに残るんですよね。

だから、本を読むのはすきで、だけど教科書に出てくるような堅苦しい昔の純文学はちょっと、って思ってるひとにもぜひいろいろ読んでもらいたい。ドストエフスキーとか超絶おもしろいよ、長くて萎えるしロシア人の名前覚えるの大変だけど、キャラももちろんストーリーも面白い。

わたしもちゃんと全部勉強したわけではないけど『罪と罰』はほんとよかった。

 

 

 

さっきもちょっと書きましたが、わたしたちって人間です。

ことばが使えます。

ことばが使えるってことはいろいろな発声方法を実践することが可能ってことで、その発声学習ができるのは、霊長類の中では人間だけらしいです。

ほかには九官鳥とかの鳥類、あとイルカとか。

 

そういう発声学習ができる生き物の共通点は、「自分の意思で呼吸を止めることができること」。

 

もちろん人間が自分の意思で呼吸を止められるようになったのは生存に有利だから、赤ちゃんとかはいろんなバリエーションの泣き方をしないと自分の意思を伝えられないから、生きるため、なんですけど、ことばを獲得するのに「呼吸を止めること」が必要だったってこと、わたしは忘れちゃいけないような気がします。

 

これからもわたしたちは多分ことばを使って生きていきますが、そこに潜む美と、ちいさな死を自覚すれば、もっと世界のことすきになれるような気がします。

 

おわり!

 

好奇心に殺される

 

好奇心っていうのはおそろしいもので、わたしたちは日常を破壊するような刺激的ななにかを覗くことを希求している。

かつて佐藤春夫がキューリアスティハンティングと訳した猟奇耽異は、変態的で下卑た欲求としてわたしたちの中に常にあり続ける。「普通の人間」存在への冒涜とか絶望とかアンチテーゼとか、そこにある苦痛も恍惚もすべては視覚情報からくる想像と追体験でしかないのに、わたしたちは興奮する。対象と距離があればあるほど、秘密が濃ければ濃いほど想像力は掻き立てられ、熱狂する。

わたしたちが笑い、怯え、眼を見張ること、感覚は彼らにコントロールされている。見世物小屋は、テントの中で起きる人間の心理現象もすべてを含めて「見世物」なんじゃないかと思う。

 

SADISTIC CIRCUS 2018 SPRING、見てきました。今年で最後になってしまうということでほんとうに見にいけて良かった。特に印象に残った演目と考えたことを書きます。順不同。

 

□浅葱アゲハ

マーガレット・アトウッド侍女の物語』をテーマにした空中芸とストリップ。前説で「天女」と称されていたその印象がぴったりはまっていて素晴らしかった。360度から見られるステージのつくりだったのですが、演者さんが空中にいるからよく見える席とか見えない席とか関係なくてその点でもすごいなあ…と思いました。上から吊るされた布を身体に巻きつけて自在に宙を舞う姿は泳いでいるみたい。踊り子さんって身体につきまとうあらゆる制限から自由になって身体すら飛び越えて踊るイメージだったのだけど、この演目は少し違って、重力を取り払った代わりにさらさらした水の抵抗みたいなものが見えたような気がしてもう訳がわからなかった。空気って液体だったんだ…。

赤い布を使ったパフォーマンスはおそらく胎児のイメージだったんじゃないかな。へその緒に繋がれながらぐるぐると羊水の中を自由に胎動して、その間に彼女はきっと魚の夢を見ていたと思う。頭から地面に降りていく神秘さにやられて息ができなかった。真っ白の衣装もその無垢を引き立てていてすごく素敵でした。

 

□龍崎飛鳥+早乙女宏美

SMと切腹第二次世界大戦中がテーマで、前半の緊縛ショーは抑圧と支配の匂いが強いSMでした。緊縛は暴力だけどどうしようもなく美しいから、そこに歴史上過去に実際にあったこととはいえ民族や性差別の色合いが滲むのは危険で、でも危険だからこそより美しく感じてしまうという面があると思った。植民支配先の女性を暴行する軍人さんの役をやっているのが男装の女性ということで、意味が倒錯してぐちゃぐちゃになる。演者さんの感情がいい意味で全然わからなくて恐ろしかった。

後半の腹切ショーは、壮絶と圧巻のひとこと。あれはほんとうに切っているんですか…?卒倒者が出るというのにも納得しました。人間は罰があるから罪を犯すのかもしれない。あの切腹で軍人の妻にもたらされたのは確かに救いで、時代から離れた場所でしか彼らは「潔白」にはなれないよ。

 

□川村美紀子+HIKO

現代アートじゃん…めっちゃいろんなこと考えてしまった。前衛舞踊と現代音楽の融合と破壊。男が鳴らすドラムの音に共鳴するかのように身体を波打たせ、暴れ、奏でられる音楽を邪魔する女。女の妨害にあってもドラムを元の位置に直して音を鳴らし続ける男。その音はもはやノイズのようでもあり、一心不乱に、男はなんのためにドラムを叩くのか(「ドラマーだから」か?)、客席の笑い声にすら反応していたように見えた女の骨ばった身体はなぜ音とともに動き続けるのか(「ダンサーだから」?)、考えだすと「狂気」としか形容できないけれど、わたしがあれを笑えなかったのは比喩としてすごく正確な気がしたから。ただの無意味かもしれないけれどそこから跳躍して普遍を生むパフォーマンスだったと思います。

次第に螺子が飛び始め、男はドラムを破壊しはじめる。ヘッドを切り取り、その中に女をしまい込む。疲れ果てた女はその中でもなお音を追い続ける。ドラムがもうドラムではなくなって、男も女もぐちゃぐちゃになって演目が終わる。なんか、こうだから現代日本社会ってうまくいかないんだよなあと思った。演者のおふたりがはけるとき、ふたりで肩を貸しあって無表情で歩いていくのを見て謎に納得しました。すごかったなあ…。

 

ゴキブリコンビナート

見れてよかったです!!!よかったです!!!ずっと見たかったんだ!!!もうカオス。ハイテンションに物語が進行して、山場のだんご三兄弟で急にテンションがスン…となってそのまま演者さんがはけていくのがとてもよい。面白い。ほっぺがやわらかいと刺すのたいへんなんだな…しばらくだんご三兄弟聞いたら思い出すぞ…。

 

□LOUIS FLEISCHAUER

人間の体を楽器に、ってことでどんなかとても気になっていたのですが予想と全然違う方向性で驚きました。儀式的空間を作り出す、ということだったけれどもはやあれは儀式そのものだったのではないかという説がわたしの中にあります。あんなに痛そうなことをしているのに客席が悲鳴をあげたりする空気感に一切ならないところが(舞台上の儀式にのみこまれてしまっている)ものすごくドイツっぽくて好きだった。

神様はきてくれなかったのでしょうか。儀式に参加した4人は殉教するように動きを止め、ステージが暗転して演目が終わってしまいます。大学の授業で、芸術をするうえで、その内容よりも「器(=media)」が重要な場合があると言っていた、まさにそれだと思う。儀式によって神が降臨したかどうか、よりも儀式を行うことが大切なんだ。女性が釣り上がってゆく時の苦しそうな表情、頭から針を抜いた血まみれの男性の目は焼き付いて離れない。

 

□THE SIDESHOW SUPERSTARS

これがエンターテイメントです。先のルイスフリッシャーさんが儀式ならこちらはサーカス。底抜けに楽しそうな彼らは痛そうな曲芸をたくさんするけど、その苦痛に歪む表情さえ観客に興奮を与えるよう計算されているのだと思うともう転がされるしかないなという気持ちになる。ほんとうに楽しいという一点に極振りされていて司会もそれぞれのキャラクターもぴったり考え尽くされていた感じ。ひやひやが程よくて、拍手しすぎて手が痛くなったし笑いすぎて唇切れました。

周りの反応見てるとやっぱり日本人って派手なパフォーマンス好きだな。剣を飲み込むやつすごかったです。

 

□奈加あきら+紫月いろは

大トリです。緊縛ショーです。ほんとうに感動した。

手つきも目つきもほんとうに優しくて、はじめ恥じるように肌を隠す紫月さんの着物を脱がすところからショーははじまるものの、抑圧というより自由を与えるような緊縛で、手早く縄を巻き付けていく奈加さんの様子に目が離せなくなりました。

女性であること、裸を見せることを恥じなければいけないことから解放され、茶色の縄で縛られていく紫月さん。印象的だったのは性器に縄を使っていなかったことだと思う。縛られるひとを性的に辱めるのではなく、身体を包む、ひとりの人間を美しい姿で固定する、そういう縄のあり方を見た気がしました。

終盤、紫月さんが上へ吊り上げられていく、というとき彼女はもはや胸を隠すような恥ずかしいようなそぶりは見せず、堂々と、ひっそりと空を飛んでいて、苦しいでしょう、脚なんてきっとすごく痛いはず、だけどもう、すごく清潔で美しくて、言葉になりません。奈加さんが紫月さんのまとめ髪を解くと美しい黒髪が空中にわっと流れて、桜の花びらがたくさん降った。死体のようにじっと動かない真っ白な身体が吹雪かれるのを上着を脱いでしたから眺める奈加さんの表情が桜を見つめる少年のようで、美しさの前に人間は平等なんだと思いました。

緊縛は暴力だけど、それによって自由を見ることができるなんて想像していなかった。ほんとうにわたしが求めていたものが見られた。よかった。ほんとうによかった。

手早く縄を解いて、身体に赤い跡を残しながら緊縛がおわってゆく、緊縛師とモデルという関係からすら解き放たれたふたりは抱き合う。縄を外した紫月さんに、奈加さんが着物をかけてあげる。紫月さんは礼をしている最中も徹底して胸は露出せず、奈加さんもはだけないように着物をおさえてあげている。

なんだかもう、だめです。美しくて、どうしようもなくて、すごくまっしろな透明な気持ちで、サディスティックサーカス の長い歴史の幕は降りたのでした。

 

 

振り返って、ほんとうにどの演目も素敵でした。ここには書かなかった方々もほんとうに!(ダンスとかは詳しくないので感想書かなかったけどすごくすごかった)

 

好奇心のことをはじめに書いたけれど、演者の方に感覚をジャックされてこんな凄まじい興奮と感動を味わえるなら、猟奇趣味変態趣味も万々歳です。

わたしにとってのサディスティックサーカス は最初で最後のトラウマでしたが、この妖しく魅惑的な悪夢と、運良くまたどこかで出会えることを願いたい。

 

 

 

31文字の宇宙へようこそ (ほむほむとわたし)

 

おやすみなさい。これはおやすみなさいからはじまる真夜中の手紙です

 

 

12月21日です。あいです。

謎解きクラスタによる謎以外の Advent Calendar 2017(https://adventar.org/calendars/2698)に参加させていただきます。

 

謎以外の趣味のおはなしということで。

ふだんわたしは大学に通っていて、がっこうでは芸術と文芸について勉強しています。

興味があるのは日本の小説と、現代短歌。今日は、「31文字の宇宙」というタイトルの通り、短歌について話したいと思います。

 

みなさんは、現代短歌についてどんなイメージを持っているでしょうか。

堅苦しそう?ふるくさい?俵万智?やっぱりサラダ記念日は鮮烈ですよね。

でもそんなひとにこそ、この無限の世界を体感してほしい!!

 

 

短歌に出会ったのは高校生のとき。

当時からもちろん本が大好きだったわたしは、本屋さんで衝撃の出会いをはたします。

 

『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』

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表紙が最高……。

なんとなく勇気が出ずその場ではいちど購入を検討し、しかしどうしてもあきらめきれずにAmazonで注文して数日後、わたしの手元に一冊の文庫本が届いたのでした。

 

「まみ」というひとりのおんなのこが歌人の「穂村弘」に対して送った手紙の内容をまとめたものがこちらです、という内容の本。ページをひらくと歌集になっていることがわかり、文章は1ページに3行しか書かれていません。一部を抜粋します。

 

目覚めたら息まっしろでこれはもう、ほんかくてきよ、ほんかくてき


明け方に雪そっくりな虫が降り誰にも区別がつかないのです

 

冒頭の2首です。

雪が降った朝かな、目が覚めて、すごく寒くて、でもどきどきしてしまって、頬と鼻の頭を赤くしながら「ほんかくてきよ、ほんかくてき」とパジャマのまま呟く少女が見えてきませんか。誰にも区別がつかないのです。いきものみたいな雪、白くて軽いちいさな虫、幻想的な冬の景色が窓の外にひろがります。

 

手紙を書いた「まみ」は妹の「ゆゆ」とペットのウサギを連れて上京してきたおんなのこ。たぶん十代。キラキラしていて、かわいくて、普通で、でもすこし(かなり?)エキセントリックで、自分のことを、まみ、と呼ぶ、どこまでも少女らしい少女。

ページをめくるごとにあらわれる短歌、「まみ」のことばたちにわたしは釘付けになりました。

 

ライヴっていうのは「ゆめじゃないよ」ってゆう夢をみる場所なんですね


もうずいぶんながいあいだ生きてるの、ばかにしないでくれます。ぷん


まみの子宮のなまえはスピカ。ひらがなはすぴか。すぴか。すぴか。すぴかよ。


早く速く生きてるうちに愛という言葉を使ってみたい、焦るわ

 

わかる……わかりすぎる。共感の嵐。

十代のおんなのこだったわたしがその頃を生きるのにひつようだった感覚がぜんぶ、ぜんぶことばになって、ここに詰まってる。ふつうに人生をみたら短い年月であるはずの十数年、でも思い返すとそんな十数年も生きてるのってすごい長いよなあ、とか考えたり。ばかにしないでくれます。ぷん!そのきもちわかるぞ~!

そうかと思ったら、

 

ハロー 夜。ハロー 静かな霜柱。ハロー カップヌードルの海老たち。


IT’S ALMOST SHIMOKAWASAN SEASON(もうすぐ下川さんの季節です)


『ウは宇宙船のウ』から静かに顔あげて、まみ、はらぺこあおむし

 

いやわかんないよ……下川さんって誰……宇宙船……?これらはとっても支離滅裂なんだけど、それは不快な意味不明さではなくて、少女のまどろみのなかを覗き見しているようなきもちになるここちよい不思議さです、ほら、夢ってそういうものだったりするし。

 

こうして一冊を読み終えたわたしは簡単に「まみ」にとりつかれてしまいました。

まみー!うおー!すきだ!ともだちになりたい!こんなに魅力的な感性を持ったおんなのことともだちになりたい!まみー!

 

あとがきには、本文の内容とは逆に、「穂村弘」から「まみ」に宛てた手紙のようなものが書かれていて……と、ここで気付きます。

わたしが今までさんざん共感してときめいた、これらの短歌を書いているのって誰?この「穂村弘」ってひと、歌人でしょ?あれ?

 

おそるおそるネットで調べてみたら、やっぱり穂村弘の大ファン、手紙魔の「まみ」なんて少女は存在しませんでした。

「まみ」、妹がいてウサギを連れていてキャバクラ嬢でウエイトレスで雪を見て興奮して「愛」ということばに憧れてカップヌードルの海老にすらハローとあいさつをする「まみ」、だいすきな「ほむほむ」(穂村弘の愛称)に猟奇的な数の手紙を送りつけてにこにこしていたはずの「まみ」は、歌人穂村弘」の妄想のなかの少女だったのです。穂村さんは、じぶんのなかに架空の「まみ」を憑依させて、こんなに少女めいた歌をよみつづけていたのです。

 

男性の作詞家で、おんなのこ視点のアイドルソングつくってる方とかいますけど、それとは違う狂気的なものを感じてわたしはぞっとしました。制約のある短歌というジャンルでここまで情景と物語を想像させるのもすごいけど、それ自体がほんとうにひとりの少女によって書かれた短歌であると錯覚してしまうくらいに「まみ」は完ぺきでした。なんで40歳ちかいおじさんなのに十代のおんなのこの子宮のこととか描写できるの。

 

詩というものはたいていが、作者=「わたし」の抱いた感傷や、「わたし」が見た風景をうたうものです。百人一首とかだって、「~とわたし(=作者)は感じた」という世界だけど、でも穂村弘がつくりあげたこの『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』は違った。作者≠「まみ」=「わたし」。これは歌集ですが、一冊の小説であるといってもよい。31文字のつながりが「まみ」という少女を一人称視点に据えた物語をつくりだしているのです。

 

 

なんかやばいものを読んでしまったぞ、というきもちでわたしは穂村弘について調べました。

 

穂村弘北海道大学在学中に短歌をつくりはじめるも、システムエンジニアとして就職してしばらくしてから歌人デビューする。棒状のあまい菓子パンを手をつかわずにもぐもぐ食べることができる。末期的日本人。批評とか翻訳とか絵本のお仕事とかもしているみたい。1990年代の「ニューウェーブ短歌」運動を推進した現代短歌のすごい歌人さん。高橋源一郎に「俵万智が三百万部売れたのなら、この歌集(第一歌集『シンジケート』)は三億冊売れてもおかしくないのに」って言われたらしい。2015年Nコン高校の部の課題曲「メイプルシロップ」を作詞した。なるほど。

 

「手紙魔まみ」以外の彼の短歌も独特でした。

 

 終バスにふたりは眠る紫の<降りますランプ>に取り囲まれて


朝焼けが海からくるぞ歯で開けたコーラで洗えフロントガラス


くわえろといえばくわえるくわえたらもう彗星のたてがみのなか


許せない自分に気づく手に受けたリキッドソープのうすみどりみて

 

くわえたら彗星のたてがみ?コーラで洗え?

意味はよくわからなくても、こころの奥の方になにか少しでも景色や色が見えたら、あなたは穂村弘のつくりだした宇宙に取り込まれてしまっているのです。

 

人はこんなに途方に暮れてもよいものだろうかシャンパン色の熊

 

もはや5・7・5・7・7のリズムすらとっぱらって、31文字という短いことばのなかでイメージが自由に踊っている!短歌って音にあてはめないと成立できないから難しそうって思っていたのですが、その印象すら変わりました。

 

 

ことばはその性質上、意味を限定してしまうからこわいものです。たまに檻にもたとえられますが、「そのもの」をことばが完全に表現しきることは不可能。でも、だからこそ、不自由な制約の中でわたしたちは自由を掴みとろうとすることができる、それを教えてくれるのもことばなのだとわかりました。

 

 

高校のときは歌集を買いあさったりエッセイを読んだりトークショーを聞きに行ったりして、本気でわたしは将来えらくなってほむほむと結婚するんだって思っていましたが、ほむ、もう結婚してしまっています。無念すぎる。

 

でもそれくらい、わたしに無限の世界を教えてくれたほむほむこと穂村弘はわたしにとって大きな存在。彼がいなかったらわたしはいま短歌なんて作っていないし、そのほかのたくさんの素敵な歌に出会うこともなかったでしょう。(穂村弘以外の現代短歌では中澤系や山田航、吉田隼人、鳥居とかがすきです。ほかにもすきなひといっぱいいる)

ほむがまだ生きていて作品を発表し続けているということはわたしの勉強の活力です。ぜひあなたにも読んでほしいよ。

 

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(自慢)

 

 

さいごに、そんなやばい歌人穂村弘の本の中でおすすめのものをいくつか紹介して記事を終えたいと思います。ながながと書いたけど、ほんとうは創作物の良さって実際に読まないとわからないから、興味がわいて機会があったら是非、短歌に、そしてほむほむに触れてみてください。なんなら本貸すよ。

わたしの文章が、誰かにとっても新しい出会いにつながればうれしいです。

 

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*歌集*

やばすぎるほむほむワールドへの入り口。もはや爆発。あなたの短歌観変えましょう。

  • 『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』
  • 『シンジケート』
  • 『Linemarkers』

 

*詩集*

短歌読んでわかってたけどあらためて言語感覚の鋭さがすごい。見方によっては短歌よりもやばいかも?世界がねじ曲がります。

  • 『求愛瞳孔反射』

 

*批評・短歌入門書*

この人あたまいいんだ……ってなる。難しいけど目からうろこぼろぼろ。

  • 『短歌という爆弾』

 

*エッセイ*

ほむほむの良さは短歌だけじゃない!!エッセイが抜群に面白い!!自分こそダメ人間だぞって思う人には読んでほしいし、思わない人に読んでほしい。笑って、呆れて、心臓揺さぶられる。

 

*朗読*

エッセイ『世界音痴』がラジオで朗読されたやつ。尾美としのりさんの素敵な声と、ほむのことばが奇妙に混ざり合って絶妙です。この朗読は本当にすき。

 ミッドナイトポップライブラリー 「世界音痴」 - niconico

変格謎解きって存在するのかな

 

こんにちは。あいです。12月9日です。

謎製作者&謎クラスタの謎解きについてのアドベントカレンダー Advent Calendar 2017( https://adventar.org/calendars/2700)に参加させていただきます。

 

わたしは最近は食猫倶楽部やマスタッシュで制作したり雑用したりキャストしたりしています。

今年の9月まではΦって団体でいろいろしていました。

よろしくお願いします。

 

謎解きについてなにか書こうってなっていろいろ考えたのですが、考えれば考えるほど謎解きってほんとうにいろんな要素から構成されてるなあって思います。

謎、ストーリー、デザイン、ギミック、演技、司会、それ以外にも色々あって一概には語れない。

なので今回は、その中でわたしがいちばん可能性がある部分だと思っている、ストーリーという要素について、日本の探偵小説という文学のジャンルとの繋がりから考えてみたいと思います。

 

日本で探偵小説が盛んになりだしたのは大正時代。

大正12年の関東大震災の復興によって、日本には近代的な「都市」がうまれます。

たとえばひとがひとりで生活できるアパートメントができたのもこの頃。今までは家族がみんなで大きな家で暮らしていたりだったのが、このとき「密室」というものができるんですね。隣に住んでいるひとがどんなひとだかわからない、モダンな街を闊歩する群衆のなかにどんな殺人鬼が潜んでいるかわからない……、ムラ的な空気の蔓延していた日本社会のなかから、自由で、孤独で、秘密のある人間がうまれる。でも誰の秘密がどこにあるのかはわからない。浪漫ですね。そういう背景の中に、探偵小説がうまれた。

 

この頃の探偵小説は今でいう推理小説だけじゃなくて、エログロナンセンス怪奇小説やSF、ホラー、あとファンタジーなんかも含んだ多義的なものでした。

具体的にいえば江戸川乱歩せんせい(屋根裏の散歩者・http://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/56649_59494.html)や、海野十三(生きている腸・http://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/871_41289.html)みたいに、必ずしもラストですっきり現実的な謎解きがなされなくてもよかったし、その謎解きがぶっとんでいても平気だった。むしろ謎解きよりも、犯罪をおこなう人間の心理を探求するところが重視されている面もあって、芥川龍之介とか谷崎潤一郎とか、純文学畑の作家たちも探偵小説みたいなものを書いていたっていうから驚きます。

 

それが、次第に流派が分かれていく。

SFはSFとして、ファンタジーはファンタジーとして処理されていく中で、トリックをすっきり綺麗に解明するのが目的である「本格推理小説」と、必ずしも謎解きに重きを置かない「変格推理小説」に分かれていきます。

 

わたしの人生を変えた小説のひとつに夢野久作の『ドグラ・マグラ』っていうのがあります。

小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』や中井英夫の『虚無への供物』といっしょになって「日本三大奇書」と呼ばれているもので、変格推理小説です。

ドグラ・マグラ』のすごいところは、そこには壮大な殺人事件と謎があって、主人公は謎を解かなくてはならなくて、たくさん考えるんですけど、けっきょく最後謎なんてどうでもよくなっちゃうところなんですね。そこに至るプロセス、自分や周囲の内面を探求するところがいちばんというか。

かつて、その内面性を深くえぐる変格推理小説は人気だった。本格を楽しみたいのだったら小説を読まなくてもいい、パズルで事足りちゃうから、芸術としての文学との相性はやっぱり悪かっただろうなあと想像します。

 

長くなっちゃった。

 

ここで謎解きゲームについて考えたいのです。

 

わたしが謎解きに興味を持ったのは2014年です。

だから謎解きって流れ的にいちばんはじめはどんなだったのかとかいうことは正直ぜんぜんわかりません。えらいひと教えてください。

 

そんな新参のわたしから見るといま主流になっている謎解きって、めちゃくちゃ本格推理小説、そして新本格推理小説の流れをくんでいるように思えます。

推理もののミステリイベントとかもいろいろあるし、個人的には今年テレビ番組の「安楽椅子探偵」とか「放送禁止」とかをはじめて見てめっちゃ震えました。くそ楽しいじゃん。

 

謎解きゲームがなんで楽しいかって、たぶん「絶対解ける謎」が目の前にあるからですよね。

じぶんも主人公になれる。かっこよくすっきり謎が解ける。それってめちゃくちゃ気持ちいい。新本格推理小説、わたしは小学生のときはまって綾辻行人館シリーズとかを読み漁っていたんですけど、難しくてそこに出てくる探偵たちみたいにばっちりとすべての謎を解くのはたいへんなわけです。わたし読者への挑戦状とか絶対無理でした。

 

でも謎解きゲームってゲームだから、必ず何割かのひとがすべてを解明できる導線があるし、特に体験という形式によって、ひとにそれを解かせて納得してすっきりして楽しくなってもらうために作られている。推理小説は物語を紡ぐために謎があるけど、そこが根本的に違います。

 

「ストーリーがいい!」「世界観がすごい!」といわれる種類の謎解きというものは存在して、そういうのってなんでそう言われるのかなと考えるとやっぱり謎が中央にあって、ストーリーがそこに絡み合って全体を構成しているからなんだろうなあと思います。

謎をすっきり解くことが目的という本格推理小説の流れをくみつつ、登場人物の心情に思いをはせる、みたいなやつ。

 

それらを本格謎解きと定義するなら、変格謎解きってどんなものだろうって考えます。

謎解きの存在しない謎解き公演というわけではけっしてなく、でもその謎の存在がどうでもいいと思えるような、そして謎に対してどうでもいいという感情を抱いてそれを放棄することが許される謎解き公演。それってどんな体験なんでしょうか。

わたしはそんな謎解きに出会いたい。

 

猟奇趣味ということばがあります。

いまでこそなんかグロとかそういうものを連想しがちですが、もとは純文学作家の佐藤春夫が言ったことばです。

キューリオシティハンティング。

奇妙なものを見たい、覗きたいと思うきもちのこと。探偵小説、そして謎を成立させる根幹となるきもちです。

 

ひとは、どうして謎を解くのでしょうか。

そこに謎があるから、ってことばをよく聞きますが、でもなんでそこに謎があるのか、って考えたら、人間が誰しもこの猟奇趣味を持っているからだと思うのです。

分からないこと、なんだかすこし変なことを覗き見するのはわくわくすることです。

このきもちがある限り、謎解きは、とは言わないけれど、広義の謎は世界からなくならないでしょう。

そう考えるとなんかめっちゃたのしいですね。

 

長くなった割にあんまり内容がなかった…。

ありがとうございました。

20170702

 

頭がかあっと熱くなったような感じがして、激しい高音が耳の奥と脳みその内側を犯す。うるさい、と感じてからそれが耳鳴りであるということに気付くまでに時間があった。胸の真下のあたりが洗濯機みたいにかき混ぜられる感覚がしたかと思ったら急に身体が軽くなる。ふわり、衝撃と共にわたしの身体は駅の硬い地面に叩きつけられた。途端にあたりが騒然として、大丈夫ですか、大丈夫ですか、とわたしの周りに人がたくさん集まってきたのが熱としてこちらまで伝わってきた。わたしはなぜだか辛くて、ごめんなさいを繰り返しながら嗚咽を漏らして、涙がとめどなく溢れる。わたしの手を知らないおばさんがそっと握ってくれた。爪が赤い。赤、というか、ミックスベリーのフルーツジュースをどす黒くしたような色だ。少し趣味が悪い。でも優しい。なみだがぼろぼろ落ちて地面を濡らす。地面、きれいじゃないのにな。化粧してこなくてよかったね、とどこか冷静な自分が笑った。

 

朝から起きることができなくてベッドの上で、気がついたら正午を過ぎていた。10時半に家を出るから9時くらいに起きようと思っていたのに、13時を過ぎても身体は全然動かない。立ち上がようとしても倒れるし、眠気と倦怠感がすごくてどこにも力が入らない。壁の高い位置にかけてある時計を確認するごとに長針は巡っていて、浅い睡眠と覚醒を繰り返していたら14時を回っていた。

本当は今日は都議選に行って美容院に行って、お世話になっている先生の展覧会を観に行かなくてはならないのだ。わたしが今住んでいる場所に引越しをしたのは3月頭だったから、まだ選挙の住民票?が移っていないらしくて、前に住んでいた家の近くの投票所まで行かなくてはならなかったし、美容院はその投票所の近くだった。はやくいかないと時間がなくなってしまう。階段の昇り降りさえ、誰かに支えてもらわないとできない。でも、行かなきゃ。

ふらつきながらなんとか駅に行って埼京線のホームに行って電車に乗って椅子に座って、そして爆睡。乗り換え駅は乗り過ごしそうになるし大変だったけれどなんとか投票所の近くの駅に着く。でも美容院の予約が18時半になってしまったので(今15時)、先に展覧会に行っちゃうことにした。また電車へ。

目当ては目黒。JRに乗って、ついて、しかし駅から美術館までの道のりがわからず、地図を見ているうちに目眩と吐き気と耳鳴りが激しくなる。駅員さんに助けを求めようとして、わたしは倒れた。

 

救急車の中は思った以上に普通で、乗せられた台車?のベッドも違和感のない硬さだったし、期待していたような病院特有のあの薬の匂いもなかった。いろいろなことを聞かれたけれどよくわからなかった。ひたすら、大丈夫です、ごめんなさい、を繰り返していたように思う。疲れとか心理性のものが強いでしょうってお医者さんには言われた。しばらくして母が迎えにきて、わたしは実家に強制連行された。実家では祖父母が荒い語気で何かをまくしたてていたし、妹は「は?」としか言わない。

 

わたしは無理をしているのかな。学校もバイトもそれ以外の活動も本気でやってるつもり。お金ないから家族のために頑張って奨学金もらって、みんな忙しいだろうから雑用もこなして、小学生に殴られても暴言吐かれても笑顔でいて、自分が辛くてもこころ病んでる人に優しくして、わたしは誰のために生きてるんだ?わたしは偶像じゃない。でも、そう言ったときに、この世界の誰もが偶像じゃないっていうことわかっているから、わたしはどこに捌け口を得ればいいんだろう?みんながつらいのはわかってるんだ。わたしはその力になりたい。わたしもつらいけど、わたしの辛さは他人の辛さに比べたら小さいものだから。でも、自分の辛さは自分だけのものだっていうこともわかってる。わたしは役に立ちたい。わたしは人の役に立つことで人に赦されたい。でも他人にゆるされているじぶんを赦せない自分がいたら、じゃあ、どうすれば自由になれるの?

 

倒れている間に色々考えた。今は心臓をどきどきさせながら横になっている。ほんとうはしにたいよ。でもしにたいひとなんてこの世界中いくらでもいるし、これを読んでくれる人もしにたいかもしれないし、でも。いきていくしかないから、わたしは言葉を使うんだと思う。

だけどいまは、すこしだけ眠りたい。

 

悪いことがしたい

 

体調悪くて学校休んでしまった。わたしはいま人の家にいます。学校休んじゃったって言ったら、じゃあうち来ていっしょに寝ようよってことになってさっきまで寝ていたんだけど、案の定私だけ目覚めてしまった。もう外は薄暗くて、というのもきょうは曇りだから朝から灰色だったんだけど、活動するのに支障をきたしすぎるから電気をつける。その人は、ツレうつのツレみたいな感じの寝癖をつけて、苦しげに目をつむっている。そりゃそうだよね。ごめん。でも電気消したらスケジュール帳に書き込みもできないし、パソコンの画面のせいで目が悪くなってしまう。少しでも光があると、睡眠の質はがくんと落ちるってインターネットに書いてあった。このままこの人は多分夜遅くになるまで起きないだろう。私は1人でバスに乗ってうちへ帰るのだ。なんだかなあって感じがするけどまあ、仕方ない。

 

きのうの夜、わたしはなんだかとても憂鬱で、バイト先で先輩が帰ったあと1人で洗い物をしながら泣いていた。世界は一人称でしかありえないから、「わたし」っていう存在は世界に溢れかえるほど生きているって、ほんとうにすごいことだな。毎日意識していたら頭がおかしくなってしまうけれど、道を歩いているおばさんも、自転車に乗った小学生も、コーヒーを運んで来てくれるウエイトレスも、テレビの中の天気予報のおじさんも、みんな生きているってこと考えるととんでもない。

今隣で苦しそうに鼾をかくこの人が言っていたんだけど、世界をつくったグラフィックデザイナーやシナリオライターがいるならその人たちはまじでやばいって。解像度高すぎだし、気持ち悪いくらい情報量が多い。モブの一人一人に人生があったら主人公の立つ瀬がないよ。

 

悪いことがしたいなあ。わたしはまじめ人間であるから、目的もなく大学をサボるという行為は実ははじめてだ。いや体調悪いんだけどね。こうして人の家に来るくらいの元気はあるわけだし。山田うどんで冷奴食べたり、ワードバスケットを少しだけやることもできるんだったら、学校行って授業受けるくらいできそうな気もする。高校より前はたくさん学校に行かない日があったけど、小中高とは違って大学は自分で選んだ場所だから本当はあまり無駄にしたくない。でもたまに息苦しい。退廃的に生きていきたいし、わんわん泣きたい。早く大人になりたい。もしかしたら大人にるって悪いことをすることかもしれない。

 

栄養と睡眠がないと人って生きていけない。自律神経とかそういうものってとても大切だってわかった。幸せになるためには気持ちの持ち方が大切だ。世界は丸くてカラフルだから、立つ場所によってどんな色にも見えてしまう。

工事をしている音がする。どこへ行ってもわたしは1人になれない。「わたし」の連続が世界をつくっていて、その連続が途切れたらたぶん世界は終わるんだと思う。だから今はこうして工事の音と鼾を聞きながら、本を読みたいと思います。

 

狂人日記

 

 昨日、公演の本番でした。

タイトルは『狂人日記』。団体に属さずに、わたし個人として人とコラボするはじめての企画だったのでものすごく緊張した。責任は自分だからね。少しだけ語りたいと思う。

 

今回のはオマージュ作品で、元ネタは魯迅大先生の短編小説『狂人日記』。有名だから読んだことがある人も多いと思うけど、あらすじ紹介。

 主人公は、昔の友人が病気になったと聞いてお見舞いに行く。するとその友人の兄が家にいて、「弟はひどい被害妄想狂になってしまっていたが、いまはもう完全に治って仕事に出ているから心配しないでくれ。これは、弟が病気だった時に書いてた日記だ。面白いから貸してあげるよ」と、一冊の日記を渡される。そして主人公がそれを読む、というだけの短いお話。その日記の内容が、「この村のみんなが俺を食べようとしている。兄貴もみんなグルだ。この村に人を食べたことのないやつなんていないんだ。俺も知らない間に人肉を食べさせられていたのだろう…」みたいな感じでなかなかに狂ってる。

つまり、村人たちから見れば弟はまぎれもない「狂人」だったけれど、弟から見てみれば、人肉を食べている(それは妄想かもしれないけど)村人たちこそが「狂人」だったんだね。というお話です。

この村の人肉食文化が弟による妄想だったら別に問題はないのだけれど、もしもほんとうに狂っているのが村人全員で、人肉食文化がこの村にほんとうに存在していたのだとしたら、「人肉を食べたくない」と主張する「正しい」はずの弟は村人によって「狂人」の烙印を押されて、いなかったことにされてしまうと思う。マジョリティはマイノリティを食うものだし。そしてこの『狂人日記』という作品は、村人(マジョリティ)と弟(マイノリティ)、どちらが狂人でどちらが狂人でないのか、分からないように描かれているからすごい。

 

これを読んだ時、「狂ってるって一般に言われてるものがほんとうに狂ってるとは限らないんじゃないか?」と思った。自分が狂ってるか狂ってないかなんて自分じゃ絶対にわからないし、そもそも何が狂気かなんて時代や国や文化によって変化してしまうから、とても曖昧。

 

今回のストーリーは私が考えたのだけれど、実はこの部分を私は一番気をつけていました。

公演のあらすじはこう。

「1週間前に失踪した兄を探してください」という依頼を受けて屋敷にやってきた探偵さん。依頼主の妹は、「お兄ちゃんが私に黙って姿を消すはずがない。きっとお兄ちゃんの日記の中に、お兄ちゃんの居場所や動機の手がかりが隠されている」と言う。実際に日記を読んでみると妹への狂気的な愛がつづられており、シスコンすぎて気持ち悪くなったお兄ちゃんが妹に構ってもらいたくて姿を消した、ということがわかる。

しかしフラグを全部立ててお兄ちゃんのもとに妹が会いに行くと、妹は「お兄ちゃんを食べて私の一部にする!これで永遠に一緒!」と言って、お兄ちゃんをハンバーグにして食べてしまう、というオチ。

 

今回つまりプレイヤーは、妹の依頼を完遂することで、妹がお兄ちゃんを手際よく殺せる手筈を整えた、ということになります。

プレイヤーには、「自分はただ謎を解いただけだったのに、結局人肉を食べるような狂人の手伝いをしてしまった。でも依頼主の依頼は達成できている。」という後味の悪さを体感して欲しかった。狂人の手伝いをした自分も狂人の一員なのではないか?「妹が狂ってたー!お兄ちゃんがシスコンで気持ち悪かったー!」と言いつつ公演後にハンバーグを食べたくなっている自分も狂人じゃないか?みたいなことを思って欲しくて、このストーリーにした。

だから主軸はグロやホラーではなく、狂気って何か?ということだったのです。

 

伝わってない気がするけど…。後からこの記事読んでもらって、少しでも伝わればいいな…。

 

私は学校も文学系だし(文学部ではないけど)、小説書くし、本読むのが大好き。謎解き公演って体験だから、本を読むよりもストーリーを強く実体験させられるものすごくすごいツールなんだと思う。私は謎よりもストーリー重視人間だから、「謎を解いたことによる達成感、成功失敗という二元的な体験」よりも「謎を解いたことで、成功はしたはずなんだけど何か違和感が残る複雑な体験」をいつも目指している。

でも今回謎とストーリーが融合しきれていなかったり、公演としてどたばたしすぎて粗が目立ちすぎていたり、もっと頑張らなきゃいけないと思うことがたくさん見つかったのでもっと頑張ります。面白いって言ってくださった方ありがとうございます。たぶん不満に思った人もいると思う、その方は本当にごめんなさい。次につなげていきたいと思うので宜しくお願いします、頑張ります。

 

そういえばわたしはこのブログ誰に向けて書いてるんだろう?

 

 

追記。思ったよりもたくさん読まれている気がします。ありがとうごさいます。魯迅先生の『狂人日記』気になった方は是非読んでみて!『阿Q正伝』とか『薬』もおすすめだよ。訳してる人はたくさんいるけれどわたしはやっぱり竹内好が好き。読みやすい。青空文庫で読めるやつは井上紅梅ですけど、こちらも別の味があって面白いです。あと色川武大って作家も『狂人日記』って小説を書いてます。これは魯迅先生のとは全く違うテイストだけどもとても寂しい小説です。まあ日記なのでとりとめないこと書いてあったりするけど、それにも増してラストの切なさがぐわっとくる感じ。ぜひぜひ読んでみてください。

文学作品をオマージュした公演はまた機会があればやりたいです。